松島こうれんについて

松島こうれんについて

名物松島こうれんの由来 軒端の梅 心月庵紅蓮尼物語

みちのくに千百年の由緒も深い名刹ー松島端巌寺(国宝)のうつ蒼たる老杉参道を辿り、地蔵銅像の前を左に折れて少し進むと、円通院の山門に向かい合って、素朴な小祠「三聖堂」が建立され、ご本尊は観音さま、そして左に達磨、右に菅公を安置してご座います。

昔、この近くに掃部という富豪が住んでいました。
夫婦が子宝に恵まれぬ悲しさから、観音さまのお慈悲にすがり子供をお授け下さいますよう毎日毎夜、祈願を続けていますと、やがて玉のような男の子が生れ、小太郎と名づけました。
両親のあふるる慈愛に育つ小太郎は、姿かたちが輝かしくも麗しく、遊びごとはいつも風流、しかも観音さまを深く信仰して、御堂の前に一本の梅の若木を植えました。これが軒端の梅と呼ばれたものです。


小太郎が十五の歳を迎えた初、父の掃部は西国三十三観音巡礼の旅に出かけました。その道中で出羽(秋田県)象潟の商人と親しい道づれとなり、幾月かの泊りを共にして二人はいよいよ白河(福島県)で別れるにあたり、「このまま別れていつまた会えることやら、それがとても辛い、できることなら親戚の関係を結んでご交際を続けたい」とやるせない気持や、お互の家庭事情など詳しく語り、ここで二人の間に小太郎と商人の娘との婚約が整いました。

掃部が霊場巡拝の長い旅から帰って見ると小太郎は、ふとした病がもとで亡くなったというのです。夫婦は互に涙の枯れるまで泣き悲しみました。そうした不幸な出来事を夢にも知る由のない象潟から、はるばる嫁入さすため娘(谷)をつれて松島にやって来ました。その綺麗に飾った花嫁姿を見て、夫婦はさらに涙を新にしたのです。

娘は、涙にぬれた顔をあげて「親と親とがお許し下さった二人の仲はまだお目にかかせないにせよ女夫と思います、ご縁の薄いのは宿命とでも申しましょう。今日からは命の終るまで、ひたすらみ仏に仕え奉りとうご座います」と聞きいれません。

人々はやむを得ず娘(谷)の心任せにしました。谷は舅姑によく使え至れり尽せりの孝養を捧げたが、数年後相次いで亡くなりました。谷は世の無常を強く感じ、逝ける人達のために冥福を祈るのが残された者のつとめとかたく信じ明極禅師の弟子となって髪をおろし尼となり紅蓮と改め、庵を作って誦経三昧に入ったといいます。


ある時軒端の梅の花ざかりを見て、夫の遺愛を憶い"植え置きし花の主ははかなきに軒端の梅は咲かずともあれ"と恨みの歌を詠んで枝に結び付けたところ、次の年、花は咲かなかった。

紅蓮尼はその枝を眺め、おどろきにたえかねて、"咲けかしな今は主とながむべし軒端の梅のあらんかぎりは"と詠んで枝に結ぶと、翌春からもとのように花開き、芳ばしい香をただよわしたと伝説は物語っています。

事実、紅蓮尼は、日本女性の鑑として今も多くの松島を訪れる老若男女のあこがれであり、お参拝する人達がたえない。その庵を心月庵といいました。観音様に参拝の人達がお供えした米を尼は粉にして煎餅を焼いて村の人々に施したと申します。

その後、誰言うともなく「松島こうれん」と言われ、人から人に、今も尚、星家(旧姓:蜂谷)によって製造され日本三景松島唯一の名物として広く販売され皆さんに喜ばれております。旧藩主時代には瑞厳寺から毎年国守に献上する習わしになっていました。

鈴木寅之助 記

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